昼は、定食屋・夜は居酒屋…と大忙し 安心・安全をモットーに地元食材でつくる遠州の『うまいモン』は、出張や単身赴任のサラリーマンにも大好評!!カウンター形式の店内で会話も弾む、アットホームなお店です。家庭の味とぬくもりを是非この機会に ご賞味あれ。
『お店情報 くわしくはこちら』
★★ http://yebisudaikoku2.hamazo.tv/ ★★
2011年06月29日
私の街にも歴史が…
最近、知ったのですが…
私の家に近所には、白羽港があります。
この、白羽港は、天皇がたどり着いたトコロだったんだよ。
お話は、南北朝時代へ…
鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇による建武の新政が行われましたが
足利尊氏らが反抗し、全国を二分する南北朝の乱世に。
遠州には南朝の後醍醐天皇に味方する井伊谷の井伊氏をはじめ
浜松、気賀、都田などに有力な領主がいました。
これに対し足利尊氏率いる北朝側には今川氏がおり、
三方原で南朝側の井伊氏と戦った。
南朝側の後醍醐天皇の皇子・宗良(むねなが)親王(※)や北畠義房らは
延元三年(1338年)伊勢から東国に向かって再起を図ろうとしましたが、
親王を乗せた船は嵐により遠江の白羽(しろわ)の港に漂着。
これが、噂の白羽港!!
ここ、白羽は、
宗良(むねなが)親王が、来たんだよ!!
すごい!!
さて、歴史は続くのですが…
ここから南朝の拠点である井伊城に入りました。
しかし、北朝側の大軍は今川氏と組んで南朝側の鴨江城や三ヶ日の千頭峯城(せんとうがみねじょう)を落とし、
興国一年(1340年)には井伊氏の三嶽城(みたけじょう)と大平城(おいだいらじょう)も落城。
遠州の南朝側の勢力は衰え、宗良親王は信濃へ。
最期は井伊谷で迎えたともいわれています。
墓は井伊谷宮にあるといわれています。
お勉強(歴史)は得意ではなかったけれど
自分に近いモシクハ、知ってる事があると
興味が沸くよね。
ちょっと 再び勉強し直して
歴女にでも、なろっかな。
私の家に近所には、白羽港があります。
この、白羽港は、天皇がたどり着いたトコロだったんだよ。
お話は、南北朝時代へ…
鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇による建武の新政が行われましたが
足利尊氏らが反抗し、全国を二分する南北朝の乱世に。
遠州には南朝の後醍醐天皇に味方する井伊谷の井伊氏をはじめ
浜松、気賀、都田などに有力な領主がいました。
これに対し足利尊氏率いる北朝側には今川氏がおり、
三方原で南朝側の井伊氏と戦った。
南朝側の後醍醐天皇の皇子・宗良(むねなが)親王(※)や北畠義房らは
延元三年(1338年)伊勢から東国に向かって再起を図ろうとしましたが、
親王を乗せた船は嵐により遠江の白羽(しろわ)の港に漂着。
これが、噂の白羽港!!
ここ、白羽は、
宗良(むねなが)親王が、来たんだよ!!
すごい!!
さて、歴史は続くのですが…
ここから南朝の拠点である井伊城に入りました。
しかし、北朝側の大軍は今川氏と組んで南朝側の鴨江城や三ヶ日の千頭峯城(せんとうがみねじょう)を落とし、
興国一年(1340年)には井伊氏の三嶽城(みたけじょう)と大平城(おいだいらじょう)も落城。
遠州の南朝側の勢力は衰え、宗良親王は信濃へ。
最期は井伊谷で迎えたともいわれています。
墓は井伊谷宮にあるといわれています。
お勉強(歴史)は得意ではなかったけれど
自分に近いモシクハ、知ってる事があると
興味が沸くよね。
ちょっと 再び勉強し直して
歴女にでも、なろっかな。
えびすだいこくα
浜松市中区砂山町324−18 ビジネスホテル辻梅新館1階
(053)458-3972
Posted by tomocco at 08:39│Comments(0)
│浜松のんべい女将のコラム
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